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幸せに暮らしたい日記

未経験を一つでも減らしてから死にたいのに、小心者すぎてスマホという窓を通してしか世界を見ることのできない日々をそろそろやめたい人の心の叫びとメモ

モトイくん

 

 

困る、と思った。

モトイくんは、黙っていた。

私も、黙っていた。

 

少し遅めの朝食の最中、モトイくんは唐突に、

「結婚しよう」

といった。

 

一瞬の後、これはアレじゃないか、と思った。

小説とか映画で、よくみるアレじゃないのか、と思った。

どうして小説家や映画監督と呼ばれる人たちは、日常のありきたりな食事中に唐突に、男に結婚を申し込ませたがるのだろう。

 

少なくとも、モトイくんはそういうことをする人ではないと思っていた。

アルマゲドン』が一番好きだと語るニンゲンとは友達になりたくない、とことあるごとにつぶやいていたモトイくんなのだ。

 

今まさに自分が、そんなナチュラルで温もりあるプロポーズとして憧れられそうなシチュエーションの中に、不躾に放り込まれているということを俯瞰しつつ、ちゃぶ台のうえの黄色い沢庵に伸ばしかけていた箸を、とりあえずそっと下げておいた。

 

取り損ねた沢庵をじっと見つめていると、だんだん腹が立ってきた。

失礼じゃなかろうか、と思った。

ごはんを食べることしか考えていていない、寝ているとき以外のいつどんなときよりも無防備なのではないかと思われる、寝坊した朝とも昼ともつかぬ食事中の人間を、突然そんなシーンに引きずり込むなんてどういうつもりだ、と思った。

 

 

モトイくんは再度、

 

「結婚しよう」

 

と言った。

 

聞こえていないかもしれないと思ったらしい。

私が沢庵に箸を伸ばすことを諦めた様子を一応目にしていたはずなのに、最初の言葉がきっと聞こえていなかったんだろうという認識に、自信をもっている口調だった。

 

 

何か言わなくては、と思った。何か言わなくてはいけない、と思った。

何か言わなくては、と思うのだけれど、私の頭の中には、「困る」という二文字しか浮かばないのだった。

 

重箱の隅をつつくようにして頭の中を探し回っても、脳が沸騰するのではないかというくらい意識を研ぎ澄ませてみても、それは同じだった。

私はただ、困っているようだった。

 

 

二度目の呼びかけで、私は無意識のうちに、沢庵からモトイくんへと視線を変えていたらしい。

我に返り、ぼやけた視界がはっきりすると、そこには正座をして、こちらを見ているモトイくんの顔が映った。

モトイくんは、正座をして食事をするような人だっただろうか。

急に、そこにいるモトイくんがモトイくんではないような気がした。

 

 

飲みかけの味噌汁の出汁と味噌が、綺麗に二層に分かれてしまうくらいの間、ひとしきり沈黙を続けたあと、私は、

 

「モトイくん」

 

と口に出してみた。

 

「モトイくん」

 

どうした、とモトイくんがいった。

 

 

こうして何度も呼びかければ、呼びかけと応答を繰り返せば、何気ない食事に戻れるのではなかろうかと淡い期待を抱いてはみたものの、やはり私はなにかしら意味のある言葉を、モトイくんに言わなければならないようだった。

 

 

「モトイくんなの?」

 

「え」

 

「どうして」

 

「なにが」

 

「どうして結婚するの」

 

 

モトイくんは黙った。

モトイくんもまた、困っているのだろうか。

私の目にじっと注がれていたモトイくんの視線が、私の鼻あたりに下がった。

 

「嬉しくないの」

 

 

しばらくして、視線を私の目に戻したモトイくんは訊ねた。

 

 

「嬉しくなくないよ」

 

 

私も、モトイくんに目線を合わせて言った。

 

ふたりでしばらく見つめあう格好になった。

お互いの視線は確かにぶつかっているはずだったのだけど、その交わった点は、なんだかちゃぶ台の上をぷかぷかと彷徨っているようで、今、この瞬間、お互いが何を見ているのか、お互いに分かっていないような感じがした。

 

 

 

私とモトイくんは、大学時代にお互いが所属していたサークルの先輩の結婚式で、たまたま隣の席になったことがあった。

 

皆がほろ酔いで楽しそうに新郎を囲み、花嫁の両親が泣きながら娘をひしと抱きしめる一連の様子を見て、モトイくんは一言、

 

 

「意味が分からない」

 

 

と、わりとはっきりした口調でいった。

私に返事を求めようとして言ったのかどうか分からなかったけれど、念のため私は、え、と聞き返し、モトイくんの少し濡れた唇を見た。

 

 

「結婚の意味が僕にはわからないよ」

 

 

モトイくんは私の方を見ないで、ステージ付近の盛り上がりに顔を向けたまま言った。

 

 

「紙切れ一枚で、どうしてそんなに喜んで、なにがそんなにめでたいんだろう。お互いがそこにいればそれでいいと僕は思うんだけど」

 

 

ねえ、と、やっと私の方を向いてモトイくんは言った。

続けざまに、

 

 

「君も、ウエディングドレスを着て、綺麗だね、よかったね、おめでとう、ってみんなに涙を流して祝って欲しいと思うの? あー、やっぱり女の子だからそうだよね」

 

 

私が何も言っていないのに、モトイくんはそんな風にいきなり結論付けた。

私は小さな声で、

 

 

 「そんなことない」

 

 

とつぶやいていた。

今度はモトイくんが、え、と言った。

 

 

「別にあたしは祝って欲しいなんて思わない。ウエディングドレスだって着なくていい。結婚も、別にどっちでもいい」

 

 

一気にそういうと、いつのまにか声は大きくなり、なぜか自分の顔が上気していることに気付いた。

モトイくんはしばらく私の顔を見つめたあと、ちょっと、と言って手首をつかみ、私を会場から連れ出した。

 

モトイくんに手首を掴まれたままそのホテルのエレベーターに乗り、モトイくんが適当に押した三つ上の階の客室フロアで降りた。

モトイくんは私を連れて、自動販売機コーナーの、ちょっと奥まったところに入った。

手首を離さず、モトイくんは私を見おろした。

 

座っていたときは分からなかったが、そういえばモトイくんは私より二十センチくらい背が高かったことを思い出した。

ぼうっとモトイくんを見つめていると、モトイくんは何も言わないまま顔を近づけ、唇を重ねてきた。

しばらくの間、私たちは自動販売機の前でそうしていた。

モトイくんは、唇を離すと、

 

 

「連絡先、知ってたっけ」

 

 

と言った。

モトイくんは、少しだけ照れたように笑った。

その日初めての、いや、私の人生で初めて見るモトイくんの笑顔だった。

そのとき初めて、モトイくんの歯並びがとてもいいこと、そして、大学時代、私はほとんどモトイくんと関わらなかったことに気が付いた。

 

それから三年が経とうとする今、モトイくんは同じ唇で、「結婚しよう」と言ったのだった。

 

 

「嬉しくなくないよ」

 

 

と言いながら、私はその日のことを思い出していた。

結婚の意味が分からないって言ったじゃない、とモトイくんに今言うのは、なんだか違う気がした。

だけどやはり、そう聞いていたからには、結婚しようといったモトイくんの気持ちをきちんと知っておかなくは、と思った。

 

 

「嬉しくなくないけど、どうして結婚しようと思うの」

 

 

採用面接のような言い方にならないよう、できるだけ、女の子らしい可愛さを残したつもりで、そう言った。

 

 

「面接みたいだな」

 

 

とモトイくんは苦笑いした。

私の渾身の演技は、全く意味をなしていなかった。

 

 

「なんとなくかな」

 

 

とモトイくんは言った。

 

 

「なんとなく、そういう気持ちになったんだよね。今。さっき。自然と」

 

 

モトイくんは、私の顔を眺めながら言った。

モトイくんの顔ってこんなに柔らかかったっけ、と思い、やはり目の前にいるのはモトイくんじゃない、結婚詐欺をはたらく七変化が得意な妖怪なのではないか、と思った。

約三年前のモトイくんは、もっと冷たくて、鋭い目をしていたような気がした。

 

 

「一緒に住むの?」

 

と私は訊ねた。

 

「そうだね」

 

とモトイくんは答えた。

 

「むずかしい」

 

と私は伝えた。

 

「むずかしい?」

 

 

とモトイくんは問い返した。

 

「なにがむずかしい?」

 

モトイくんは然るべき質問をした。

 

 

「ロッカーの鍵を失くしたの、会社の」

 

「会社のロッカーの鍵を失くしたの?」

 

「そう、失くしたの」

 

「それの何がむずかしいの」

 

 

私は半年前に、会社の更衣室で各個人に割り当てられたロッカーの鍵を失くしていることに気が付いた。

そのロッカーに私は、片付けが間に合わない不要な資料を目いっぱいつっこんでいた。

開けなくても困らないのだが、鍵を失くしたことをまだ会社に報告していなかった。

 

 

モトイくんは、隣の県に住んでいて、私たちは少し遠距離恋愛だった。

それでも、二週間に一回くらいのペースで会っていたのだけれど、結婚して一緒に住むことをモトイくんが望んでいるとなると、毎朝八時四十五分に隣の県から出社するということは現実的に厳しいし、あまり想像したい未来ではなかった。

モトイくんが私の県に越してきて主夫になる、というパターンは、互いの収入の違いを考えると、望ましいとは言えなかった。

 

となると、結婚したら私は会社を辞めなくてはならなくなる。

同時に私は、ロッカーの鍵を失くしたことを、会社に申し出なければならなくなる。

そう思っただけで、私は胃の底にコンクリートでも流し込まれたような重さを覚えた。

 

 

「会社にロッカーの鍵を失くしたことを言いたくない」

 

 

それを聞いたモトイくんは、以前より丸みを帯びたものの、やはり切れ長のすうっとした目でしばらく私を見つめたが、それから何も言わなかった。

 

 

仕事を休もうとするとき、真っ先に、休むという連絡をすること自体の面倒くささに負けて、結局、出社する。

友達に何かに誘われても、もし何かあって断らなくてはならなくなったときや、急に家を出るのが嫌になったときのために、断るという面倒くさい行為を避けるために、はじめからできるだけ人と約束をしないようにする。

私にはそんなところがあった。その先にある、ちょっとした面倒事を理由や言い訳にして、現状を保つような、そんなところがあった。

 

私は今、結婚という、現状をひっくり返すような「大事」から、必死で逃げようとしている。ロッカーの鍵を失くしたことを言い訳にして。

 

 

モトイくんが、私が取り損ねた沢庵を無言のまま口に運び、ボリボリと鳴らした。

私も味噌汁をかき混ぜて、口に流し込んだ。

味噌汁はもう冷たくなっていたが、まだ、土曜日の昼前だった。

 

二人で黙って茶碗を片付けた。

私が洗って、モトイくんが拭いた。

モトイくんが拭き終わった茶碗を、二人で食器棚に戻した。

何も言わず、リビングに戻った。

窓の外を眺めた。

六月にしては珍しく、暑くもなく寒くもない、いい天気だった。

 

モトイくんはそのまま寝転がった。

私も寝転がった。

どれくらいか経って、起き上がってモトイくんを覗き込むと、眠っていた。

寝顔を、まじまじと眺めた。

いつものモトイくんだった。

 

気が付くと、私も眠っていたらしく、時計は五時を指そうというところだった。

見まわすと、モトイくんがいない。

急に不安になって、心臓がドキドキと鳴った。

 

モトイくん、どこにいったんだろう。

帰ってしまったのかな。

怒らせたかな。

モトイくん、モトイくん。

                                                                                                                                                  

モトイくんを探さなくてはと立ちあがった瞬間、リビングの向こうから、ジャーと水の音が聞こえた。

なんだ、トイレか。

ホッとして、私はまた、へたへたと座った。

 

 

「さんぽにいくよ」

 

 

と、玄関からモトイくんが言った。

私は立ち上がり、モトイくんの方に向かった。

 

外に出ると、雨の後の匂いがした。

よく見ると、アスファルトは少し濡れていて、私たちが眠っている間にひと雨降ったようだった。

 

道の脇の塀には、大小様々の、雨に呼びだされたカタツムリがいた。

カタツムリが苦手な私に、モトイくんは、「あ、かたつむり、あ、あそこも」とニヤニヤしながらいちいち報告した。

「やめてよ」と私が嫌そうにしてみせると、モトイくんは子供みたいに笑った。

塀の上から、ところどころに青や紫の紫陽花が覗いていた。

カタツムリは好きじゃなかったけれど、紫陽花が大好きな私には、少し困った季節だった。

 

いつものように手をつなぎ、目的もなく歩いた。

少しだけ、おなかがすいた。

 

そのまま家に帰り、私はカレーを作り、モトイくんはテレビの前に座り、カレーが出来ると何事も無かったかのように食べ、テレビで笑い、茶碗を二人で片付け、それぞれ風呂に入り、上がり、髪を乾かした。

 

 

「寝るか」

 

 

とモトイくんが言って立ち上がり、寝室に向かった。

トイレにいって、玄関やリビングの電気を消し、私も寝室へ向かった。

モトイくんはもうベッドに入っていた。

私が近づくとモトイくんは、ベッドの端の方に寄った。

私はモトイくんが作ってくれたスペースに潜った。

 

モトイくんは天井を見上げていた。

豆電球も付けない主義だけれど、目が慣れてきてモトイくんのスッとした横顔の形が、うっすら見えた。

 

 

「モトイくん」

 

 

私は呼びかけた。

 

 

「ん」

 

 

モトイくんはこっちを見た。

 

 

「おやすみ」

 

 

私が言うと、モトイくんも、おやすみ、と言って、布団の中で私の手を探し、握った。温かくて、男性にしては少し柔らかい皮膚の、だけど大きくて骨ばったモトイくんの手だった。

私はモトイくんの方に身体を向け、モトイくんに鼻をくっつけた。

会えないとき、決まって恋しく思いだすモトイくんの匂いが、ちゃんとした。

 

 

目が覚めた。

雨の音がする。

日曜日の朝だった。

 

いつの間にか握っていた手は離れ、私はモトイくんの肩にしっかり鼻をくっつけて、モトイくんの腕にしがみつく格好になっていた。

そのまま鼻から思い切り深呼吸をして、モトイくんの匂いを胸一杯に嗅いだ。

モトイくんが少し動き、ウーッと言いながら目を覚ましそうにした。

 

 

私は小声で、

 

「おはよう」

 

と言ってみた。モトイくんは、

 

「おはよう」

 

 

と言いながら、この三年間、何回繰り返したか分からない当たり前さで、私の首の下に手を回そうとした。

いつものごとく自然な仕草で、私は頭をもたげ、モトイくんの腕に頭を乗せた。

そのままモトイくんはもう片方の手で、やっぱりこれもいつものように私の顔を自分の胸に引き寄せた。

 

 

「モトイくん」

 

 

と、もごもごしながら言った。

まだ寝ぼけているモトイくんの腕の力が強くて、少し苦しかった。

 

 

「ん」という音が、モトイくんの胸から響いてきた。

 

 

「ロッカーの鍵、もう一回探す」

 

 

と私は言った。

 

 

モトイくんの胸がまた、「ん」と響いた。

そのまま、私はモトイくんの心臓の音を聞いていた。

モトイくんの顔は見えなかった。

 

起きたら、鞄のポケットを全部ひっくり返してみよう、と思いながら、モトイくんの胸で、もう一度眠った。