幸せに暮らしたい日記

未経験を一つでも減らしてから死にたいのに、小心者すぎてスマホという窓を通してしか世界を見ることのできない日々をそろそろやめたい人の心の叫びとメモ

 

ここの喫茶店は、いつも人が少ない。

フロアの隅には大きなスピーカーがあって、そこからは胃の底が波立ち響くようなベース音を利かせたジャズが流れる。クニコさんは、そのスピーカーの側に座るのをひどく嫌がり、いつも対角線の一番遠い席に座る。

 

そんなクニコさんはさっきから、取っ手に人差し指をかけたコーヒーカップを、ソーサーの上でゆっくりと回している。時折、陶器のカップのざらりとした底とソーサーとが擦れ合って、ずり、と嫌な音がするが、クニコさんは、そこはお構いなしなのである。

 

マスターはわたしたちの席をわざとらしく通りすぎる。通り過ぎるたびに、マスターはクニコさんばかりを見つめ、わたしのことなどまるで見えていないといった風である。そしてそのクニコさんへと迷いなくまっすぐに向けられた視線は、やや熱を帯びているようにわたしには感じられる。

 

わたしは、カップの取っ手にそっと掛けられたクニコさんの人差し指を見つめる。

クニコさんの人差し指は、密やかである。先に向かって無抵抗に柔らかく伸び、爪の先端は楕円に整っている。それは、カップをおかまいなしにくるくる回して遊ぶような仕草とはおよそ似つかわしくなく、さらに言えば、クニコさん自体ともあまり調和していないほどである。

 

クニコさんがふいに指を止め、カップを口元へと運び、傾けた。

クニコさんの唇は、普通より少しぽってりしているくらいである。もともと血色がよいのか、口紅は刺していないことを、カップの淵が教える。林檎の肌のように、しっとり、しん、と膨らんでいる。コーヒーで湿った唇を紙ナプキンで抑えるその指を、わたしは眺める。

 

10年前の師走も終りの頃、目覚めると、そこには見知らぬ天井があった。

恐る恐る左を振り向くと、畳の上で、長くも短くもない髪を生やした頭がふわりと横たわっていた。わたしはぎょっとしたが、髪に埋もれた頭の向こう側から聞こえてくるすやすやとした呼吸音が、わたしの直感に、危険でないと働きかけていた。

落ち着いて、よく観察すると、畳にさらさらと投げ出されたその髪は、絹と言うよりももう少し綿のような質感に見えた。その頭の持ち主は、こちらに背中を向け、何も敷物のない畳の上で、胎児のような、三角座りが、ころん、と転がってしまったような形で丸く眠っていた。

 

一方のわたしは、布団に寝かされ、ご丁寧に毛布と綿布団まで掛けられている。年の瀬まであと六日というところなのである。わたしは慌てて起き上がり、自分に載っていた布団をその人に掛けようとした。

 

そのとき、ころんと眠っていたその人が、大の文字を描くように四肢を伸ばした。わたしは掛け布団を手に持ったまま、おろおろとした。そしてその人は、なかなか開かないのよ、といった風で目をしばたたかせ、「いま、なんじ?」と言った。「わかりません」と答えると、「あー」とやや大きめの声をあげて、彼女はやっと目を開いた。タイトスカートが上にずれて、内腿が顕わになっている。

 

「あの、ここはなんでしょうか、どうしてわたしは」

 

布団を持ったまま、訊ねた。

 

「拾ってきたのよ」

 

身を起こした彼女がいたずら小僧のような目でこちらを見上げ、布団をよこしなさいとばかりに手を伸ばしている。あわてて布団を渡そうと近づくと、彼女は思いきり布団を引っ張り、私は「ぎゃっ」といって彼女の上に倒れ込んだ。さっき隣で眺めていた綿の様な髪がわたしの鼻に触っていた。彼女は、げらげらと笑いだした。それが、クニコさんである。

 

クニコさんによると、あの夜、わたしは立ち飲み屋で正体を失くしていたらしく、同じ店に居合わせたクニコさんにひたすら、「男なんて」と繰り返していたのだそうだ。

 

「小学生のとき、道のど真ん中に蛙がいたのよ。車がきたら轢かれちゃうな、助けようかしら、なんて思っているうちに、車が来たの。思わずつぶってしまった目を開けてみたら、蛙、ぺちゃんこだったの。なんだか、あの日のあなたを見て、それを思い出してね」

 

どうやらその蛙のおかげで、わたしはクニコさんに拾われたらしい。クニコさんが珍しく神妙な面持ちで語ったので、「雪の日の子猫の話だったらもっとよかった」とは言えなかった。

 

クニコさんに拾われてから、わたしたちはなぜか一緒に暮らすようになった。わたしが自宅に戻ろうかしらと告げるたびに、クニコさんが困った顔をするせいである。

クニコさんの困った顔をなんとなく見たくなくて、わたしは仕事帰りに自分の部屋へ戻り、荷物を少しずつ、クニコさんの部屋へと運んだ。荷物と言っても、肌着や衣類、化粧品くらいのものである。洗面台にはそれぞれ違うブランドの化粧水や乳液、洗顔料がならんだ。

 

「あんたそれ使ってるの、カイメンカッセイザイってよくないのよ、やめなさいよ」

「クニコさんだってその化粧品、ボウフザイが入っているじゃない。よくないわよ」

 

そんなことをいいながら、互いが互いの見ないところで、こっそり互いの化粧品を使っていることを、ちゃんと知っていた。なぜなら、この部屋には布団が一揃いしかなく、二人で一緒に眠るからである。わたしは少々窮屈に感じていたが、クニコさんはなんだか楽しんでいるようで、わたしの人さし指に自らの人さし指をからめてそのまま眠ってしまう。そしてクニコさんの頬からは一週間に一回ほどの頻度で、わたしの化粧品の香りがするのである。

 

「クニコさん、ばれてるよ」

 

わたしは一応文句を言っておくのだが、クニコさんは、どんなときだってすやすやと眠っているのだ。わたしは仕方なく、クニコさんの人さし指に絡める力を強くしたり弱くしたり、それを親指で撫でてみたりする。意外なほど華奢なそれに触れていると、起きているときのクニコさんははりぼてで、いまここで眠っているクニコさんこそが本当のクニコさんなのだろうか、と思考をめぐらせ、いつの間にか眠りに落ちてしまうのだった。

 

「ねえ、ちょっと、うなじの毛、剃ってくれない?」

 

ある日クニコさんはそういって、わたしに剃刀をもってきた。クニコさんは髪をまとめ、うなじを向けて座った。

 

「痛くしないでよね」

 

「じっとしてくれなきゃわからないわ」

 

クニコさんの首筋に刃を当て、そっと撫でると、細くて柔らかな毛が、さらさらとこぼれた。

 

「クニコさん、どうして剃るの?」

 

「理由なんてないわ。剃りたいのよ」

 

「男?」

 

クニコさんは黙っている。

黙ったクニコさんの首に、わたしは刃を当てる。

 

「へえ、クニコさん、男いるんだ」

 

クニコさんは、やっぱり黙ったままである。

黙々と刃を滑らせ、わたしは、いいわよ、と声をかけた。

ありがとう、と短く言って、そのまま洗面台へと消えていったかと思うと、わあすごい、綺麗になってる、とクニコさんが子どもの様な頓狂な声を出すのが聞こえた。

わたしは剃刀をもったまま、畳に座ってその声を聞いていた。

 

夜になっても、クニコさんはどこへも行かなかった。部屋着のまま寝転んで、水木しげるを読んでいる。

 

クニコさん。男。クニコさん。男。

 

わたしの頭の中はその二言で充満していた。わたしは先に布団へと入り、寝たふりをした。私が起きているから、クニコさんが男のところに行けないのかもしれない、そう算段したのだ。だけれど、一方で、わたしが黙って布団に入ったことを心配してクニコさんが水木しげるをやめ、隣に入ってくるかもしれない、とも思った。

 

クニコさんが、ぱたり、と、水木しげるを閉じる音がした。わたしの鼓動は早まった。なぜ早まっているのだろう、と思ったけれど、自分の耳まで聞こえるほど、とくんとくんと鼓動は早まった。クニコさんの足音が、こちらへ近づいてくる。そしてわたしの前で止まり、クニコさんがしゃがんでわたしの顔を覗き込むのが分かった。必死で目をつむるわたしの頭をクニコさんはそっと撫でた。

 

そして、クニコさんは立ち上がり、脱衣所へと歩き去った。

わたしの身体は、どうかしているほど硬直し、熱をもっていた。目を開いてみても、目の前は暗いままだった。

玄関の鍵が、がちゃりと閉まる音がして、部屋の空気が止まった。暗闇で呆然と目を開けて、布団の中で丸くなった。りりり、と鈴虫が鳴いていた。

 

クニコさんの白いうなじに、男が口を寄せている。クニコさんは夢見心地でやわらかく瞼を閉じ、男の名を呼んだ。男の顔も名も、わたしのよく知ったあいつのものだった。背後から忍び寄り、男の首に剃刀を立てた所で、わたしは目覚めた。

 

起き上がると、クニコさんは、台所で湯を沸かしていた。わたしに気が付くと、おはよう、コーヒー?と尋ねた。

わたしは、うん、と答え、ちゃぶ台へ移動した。クニコさんが、とぽとぽと淹れてくれたコーヒーを飲む。いつもどおり、酸味のない、濃い目である。

 

「クニコさん」

 

呼ぶと、クニコさんがわたしをみつめた。

 

「わたし、戻るね」

 

クニコさんは、相変わらず、困った顔をした。だけれどわたしには、それが安堵を含んでいるようにも見えた。

 

コーヒーを飲み終え、わたしはクニコさんの部屋を出た。部屋を出るとき、クニコさんは両手で、わたしの頬を挟み、ひとしきり見つめた。クニコさんの指は細く、軟らかく、するりとしていて、ぬくかった。

 

「気をつけるのよ」

 

頬をはさんだまま、クニコさんが言う。わたしの唇がひよこのようになるほど、手には力がこもっている。

 

「返事は?」

 

「はい」

 

もごもごと返すと、ようやくクニコさんは手を離し、じゃあね、と言った。

 

2駅先にあるわたしの部屋まで、歩いて帰ることにした。約9カ月分の荷物をまとめて出てきたから、少し重たかったけれど、電車に乗ってすぐに家へついてしまうというのは、なんだか気分ではなかったし、少し怖かった。家へ歩いて帰るという時間と道のりが、クニコさんの部屋と現実との間を埋めてくれるような気がした。

 

畑の淵を、とぼとぼと歩いた。久しぶりに歩くなあ、こんな道だったっけ、と思いながら、時折、荷物を持つ手を右へ左へと変える。真っ青な空を、雁が列をなして通り過ぎてゆく。

 

ふと、遠くにやっていた視線を近くに戻し道路へと目をやると、何かがいる。近寄ってみると、それは蛙だった。道路の真ん中で、どうしてか、うずくまっている蛙だった。

 

クニコさんの神妙な顔が浮かぶ。わたしは荷物をその場におろし、蛙の元へ踏み出した。道路へ出た瞬間、車のクラクションが聞こえ、わたしの身体は高く飛び、道路へたたきつけられた。わたしは、この世に帰ってきてはいけない人となったらしい。

 

クニコさんのカップには、あと少し、コーヒーが残っている。クニコさんはまた、カップをソーサーの上で回し、時折、嫌な音をさせている。

 

クニコさん。

 

クニコさんは、あいもかわらず、カップを見やっている。

 

クニコさん、わたし、死んだのよ。

ねえ、クニコさん。

 

ねえ、あの夜、どこにいったの?

ねえ、やっぱり男だったの?

ねえ、わたしが出て行くとき、どうして止めなかったの?

ねえ、どうしてわたしを拾ったの?

 

ねえ、わたしクニコさんのこと、好きだったかもしれない。

 

「マスター、お勘定おねがい」

 

クニコさんが、最後の一口を飲んで、席を立つ。

わたしもすーっと、後に続いた。