幸せに暮らしたい日記

未経験を一つでも減らしてから死にたいのに、小心者すぎてスマホという窓を通してしか世界を見ることのできない日々をそろそろやめたい人の心の叫びとメモ

負けてられない

ハイストリートを一人闊歩していると、見覚えのある影があった。
確実に、彼だ。
ビルの谷間に吸い込まれていく彼に、慌てて背後から忍び寄る。


何者かが後ろからつけてきているのに気付いたのか、彼は足を速めた。


ここはイギリス。いくら先進国と言っても、日本ほど安全ではない。そうするのも当然のことだと思いながら、横並びになったところで「ぎっちゃん」と声を掛けた。


ぎっちゃんは、明らかにぎょっとした感じで振り返り、そして私だと確認すると、かなりすっとんきょうな顔をした。


「え、なんで?」


それもそうだ。東京並みの大都会のど真ん中で、同じ時間に同じ通りを歩いているなど、ある意味恐ろしいほどの偶々である。GPSでもつけていてストーカーしていない限り、奇跡的な偶然である。

 

彼と会うのは翌日の予定だった。朝九時にパディントン駅で待ち合わせをして、ナショナルレールでケンブリッジへの小旅行をしようと計画していた。


だいたい、私がロンドンに行くことになったこと自体が偶然(間違って航空券をとった)であり、なんとなく彼がロンドンにいるような気がして連絡したら本当にロンドンに居たというのだから、それはそれで恐ろしいことである。


予定外にばったりと会った後、彼はええ~っと言いながら、約束があるから! といって去って行った。


路地裏に消えていく彼の背中を見送りながら、なんだか痩せたんじゃないか、と不安になった。背まで、小さくなったように見えた。絶対気のせいなんだけど。

 

次の朝、約束通りパディントンで待ち合わせた。昨日ばったり会ってしまったことで、今日会うのが嫌になってしまうのではといささかの不安を抱えながら眠った前夜だったけれど、彼は無事にやってきた。
昨日の狼狽の様とはうってかわって、おうっ、と私の肩を小気味よく叩いた。

 

久しぶり、といってパディントンのチューブへと潜る。地下に下りる階段で、彼は私のスーツケースをひょいと持ち上げようとして「おもっ! なにこれ!」と言った。相変わらずのひょうきん節な声色である。うるさいな、と言いながら思わず笑ってしまったが、彼はその後も私の荷物を抱えて階段を上り下りしてくれた。


並んで歩くと、やっぱり178㎝の彼は縮んでいなかった。

 

けれど私は、「ちゃんと食べてる?痩せたんじゃない?」と訊ねてみた。すると、ぎっちゃんは、「そんなはずはないよ、太ったはずだよ。だって筋トレしているんだから」と答えた。

「え、筋トレしているの? マッチョになるの?」と訊ねると、ぎっちゃんはにべもなく、「そうだよ、マッチョになるよ」と答えた。

どのくらいマッチョになるのかと訊ねると、「ほら、あの人くらい。あっちの人はひょろひょろでしょ。あの人くらいになるよ」と飄々と答えた。


いつだって彼は飄々としていたな、と思った。初めて会った時も、初めて部屋へやってきたときも、私の部屋を出て行った後に送ってきた「また来るよ」のメッセージも。

 


ナショナルレールに乗るために、キングズクロス駅へ向かった。
まずは隣り合っているセントパンクラス駅に、私の重たい荷物を預けた。

ぎっちゃんが、「お腹が空いた、死んでしまう」と言った。キングズクロスからケンブリッジまでは、約60分。死なれると困るのでパン屋へ行った。

ぎっちゃんはクロワッサンとコーヒー、私はクッキー。

 

無事列車で席を確保した。

ぎっちゃんが、「ねえ!一時間なにする?」と無邪気に尋ねた。

 

わたしたちは、この約二年間、ほぼ連絡を取り合っていなかったので、近況を伝え合っていたら60分はあっという間だった。

 

その間、草原を駆け回る馬を見つけるたびに、私が、「ねえ!馬だよ!」と言い、それが10回を超えたころ、「そうだね、まんちゃん、馬だね。僕はもうそれ以上の反応ができないよ」と理路整然といなしたので私は馬を見つけたことを報告することをやめた。

 

なんで前職を辞めたの、と尋ねると、

「もう学ぶことがなくなったからだよ」

と、ぎっちゃんはさらりと言った。

 

「次はどこに住むの?」と尋ねると、「そのうちオマーンにいくよ」

オマーン??ねえ、ぎっちゃんは最終的にどうなりたいの?」

「火星に行きたい!だからお金が要るの」

「そうなの。火星に行くの。すごいね」

「まんちゃんは行きたくない?火星」

 

冗談か本気かわからないようなことだったけれど、その中にはぎっちゃんの真剣な想いが少なからず含まれていることを、私はなんとなく感じ取っていた。

 

止まることが怖いんだ、と言うぎっちゃんは少なくとも、生きることにとても真摯であるなと思った。

 

とにかく英語は必須だ、と、ぎっちゃんは言った。とりあえずなんとなくわかればどうにかなるよとも言った。土日だけ帰ってくるシェアメイトとはほとんど話さず、名前すら知らない、と楽しそうに言った。

 

ぎっちゃんのこういうところが好きだったなあと、その口調を左耳に心地よく聴いた。

 

電車を降りた。ケンブリッジは快晴だった。これ以上にない、快晴だった。真夏のような抜ける青の空の下を、眩しがりながら並んで歩いた。

 

ぎっちゃんも私もトイレに行きたかったので、ショッピングモールでトイレを探した。それで2人して迷子になり、トイレを諦めようとぎっちゃんが言ったけれど、わたしは半ば宝探しのような気持ちになっていて、ぎっちゃんに従わずトイレを探した。

ぎっちゃんは呆れたように、トイレ探すのに時間を取りすぎだね僕達、と言いながらも、ついてきてくれた。

 

無事に見つかり、用を足した。ぎっちゃんの方が出てくるのが遅くって、わたしは見捨てられたのではと不安になった。

そういうことはその後も何度かあり、わたしは見捨てられ不安を強めに持っているのだなという自覚をした。

 

ケンブリッジは、私たちが思っていたほど緑の楽園ではなかった。

ただ太陽が燦々と降り注ぐ、ある種、地中海のような雰囲気の日照りの中をずんずんといった。

 

いくつかの教会をまわり、わたしが学生に間違えられたことをぎっちゃんが馬鹿にし、川ではしゃぐ若者たちを2人眺めながら若干侮蔑的なコメントをし、ハンバーガーを食べ、野原に出た。

 

わたしがお昼寝したい、とのたまうと、ぎっちゃんは、「いいよ、一番緑のところへ行こうね」と言った。

「一番緑?」「うん、一番緑。まんちゃん探して」と言うので、

わたしなりの「一番緑」を探して寝転んだ。

 

こりゃあ日焼けしちゃうよ、とわたしが言うと、「日焼けするよ!日焼けしなきゃ!」とぎっちゃんは明るく答えた。

わたしは嫌だったので、リュックで顔を隠して寝転んだ。

30分も経ったころ、本気で寝ていたことに慌てて起き上がると、ぎっちゃんが上体を起こしてぼうっとしていた。

本気で寝てた、というと、ぎっちゃんは笑った。

「行こうか」と立ち上がり、「一番緑」を出た。わたしが植物園に行きたいと言ったので、ぎっちゃんが連れて行ってくれた。

 

道中、なんだかここにいると自分がすごく小さくなったような感じがするよ、とぎっちゃんに伝えた。

 

ひとり旅の間、ずっと思っていたことだった。

日本にいると横幅があると思っていた自分が、イギリスにいると、縦も横も小さくなった気がしていた。

ぎっちゃんが、「まんちゃん痩せたよ。3分の2くらいになったよ」と言った。

わたしは痩せてなんかなかったから、この人もまた、異国で錯覚に陥っているのだと思った。わたしがぎっちゃんの小ささを不安に思ったように。

 

「わたしは中途半端サイズなんだよ。日本じゃでかいし、こっちじゃ小さいし」

 

そうぼやくと、「なら鍛えなきゃ」とぎっちゃんが言った。

ぎっちゃんもそう思って鍛えているの?と尋ねると、「そうさ」とぎっちゃんは答えた。

 

「負けてられないよ、まんちゃん」

 

不意にぎっちゃんが言った。

その後も何度か、ぎっちゃんは同じことを呟いた。

 

「負けてられないんだよ。そうでしょ?」

 

そのとき、わたしは初めて、ぎっちゃんを知った気がした。

ぎっちゃんの匂いも、手の柔らかさも、背中の感触も知っていたつもりだったけど、何もわかっていなかった。私が知っていたのは、ぎっちゃんを包む端整な肉体だけだった。

 

 

そうだね。

負けてられないね、ぎっちゃん。

 

なんだか、涙が出そうになったけれど、わたしは我慢した。

 

飄々としているぎっちゃんから、不意に飛び出した、マグマの塊のような言葉。

 

ぎっちゃんは、生きていた。

ありとあらゆることに、自ら望んで戦いを挑んでいた。

 

 

負けてられないよね。

負けてられない。

欧米人にだって、他の日本人にだって、自分にだって。

 

ぎっちゃんに会えてよかったな。

好きとか嫌いとか、男とか女とか、

そんなことを越えて、

イギリスに来て、ぎっちゃんに会えて、

人生でぎっちゃんと知り合えて、

本当によかったと思った。

 

 

 

帰りの電車に、乗り間違えた。

わたしの飛行機の時間を考えて

しきりに時間を気にするぎっちゃんが、

「どうしてそんなにまんちゃんが冷静でいられるのかわからない」と言い出したので、わたしもさすがに焦り始めた。

どうしようどうしよう、と言うと、本当にこっちに住みたいなら、もう帰らないで会社辞めればいいじゃん、とか言い出したので、それもありだなとか思いながら、それでも急いだ。

 

気づいたら荷物の預け証もなくしていて、バタバタとしながらセントパンクラスを出た。

キングズクロスの改札まで送ってくれたぎっちゃんに、飛行機に乗れなかったら帰って来ていい?と尋ねると、そうしないでどうするの?とぎっちゃんが言った。

 

結局わたしは無事に空港に着き、ぎっちゃんのお世話にならずに済んだ。

 

ぎっちゃんに、ありがとう、とラインすると、「おお、無事だったか、よかった」と返事が来た。

 

 

それからぎっちゃんには連絡を取っていない。

これからまた、会うことがあったら、

ちゃんとお礼を言いたいなと思う。

 

 

負けてられないね。

人生、負けてられないよね。

 

 

しばらく、わたしはそんなことを思って生きていこうと思う。

 

ありがとう、ぎっちゃん。

ありがとう、イギリス。